今回取り上げる歌詞は…
北海道・知床(しれとこ)の雄大な自然と人の心情が重なり合う大人の叙情歌「知床旅情」です。


1960年の映画『地の涯に生きるもの』の撮影中に森繁久彌が作詞・作曲した楽曲です。 加藤登紀子が1970年にカバーし紅白歌合戦でも歌われました。
歌詞の瑕疵 〜白昼の日の出⁉️
上記一番の歌詞で、ボクが釈然としないのは最後の一節、
はるかクナシリに 白夜はあける
漢字で書くと、
遥か国後に 白夜は明ける
文意は、「遠くの国後島の方から白夜が明けていく」となります。
「白夜は明ける」とは⁉️
白夜(びゃくや)とは、北極や南極に近い高緯度地域で、夏の期間に太陽が一日中沈まず、夜でも明るいままの現象です。地球の地軸が傾いているため、太陽側に傾いた極地方が常に太陽光を受けることで発生します。 つまり白夜とは、終日太陽が天空に存在する状態。なので白夜から夜明けは訪れません。
「白夜は明ける」としたら、 知床はおもしれーとこですね😽
そもそも知床に白夜は生じる?
白夜になる地域の条件をイラストで説明します。
上図のように地球の自転軸は、太陽の公転面に対して約23.4度傾いています。そのため夏至の時には、北緯66.6度以北(上図の水色部分)は終日太陽光が向かってきます。つまり,白夜となります。(太陽は遠くにあるので太陽から地球にふりそそぐ光は平行光線と考えて問題ありません)北半球では夏至の時に、最も広範囲の地域で白夜となります。換言すれば、「北半球で白夜になる地域は北緯66.6度以北に限られる」となります。
知床半島は北緯約44度(43度56分〜44度21分)に位置しています。従って、知床では白夜を見ることはできません。
「いやいや、この歌詞の視点は国後島にあり、遥か国後での白夜について言及しているのだよ」という反論が聞こえてきそうです。
しかし、国後島の緯度は知床半島とほぼ同緯度、北緯43度39分から44度31分に位置しています。

結果、「遥か国後に 白夜は明ける」という歌詞には瑕疵があると言えます。
作詞をした森繁久彌の想いは?
森繁は、芸風・人柄共に多面的な魅力に溢れています。ただ負の一面としてプライドが高く神経質で気難しい性格も併せ持っているようです。
森繁久彌は、昭和から平成にかけて活躍した国民的俳優・歌手。映画「社長」「駅前」シリーズの喜劇役者として一世を風靡しました。2009年11月10日に老衰のため96歳で逝去しました。
この歌詞の瑕疵を森繁に指摘したならどのような 返辞が返ってくるだろうか?
森繁の来歴と性格を鑑みるに素直に誤謬を認めないと推察します。そして、上から目線で反駁するでしょう。
下図のイラストのように。

いや、ボクが思うに、森繁はイラストのような生ぬるい 駁説を展開するとは思えません。
森繁は、「遥か国後に 白夜は明ける」という言説さえも正当化するでしょう。
例えば以下のような 立論で…
『歌詞を含めた詩は必ずしも科学的に正しくなくていいんだよ。
科学は事実の正確な記述や再現性を目的とし、評価基準は真偽・検証可能性なんだ。一方、詩は感情・経験・意味の表現を目的とし、評価基準は共感・象徴性・美的効果です。
だから、同じ「言語表現」であっても、属する領域が異なる以上、求められる正しさの種類も異なるんだ。
詩における言葉はしばしば比喩や象徴として機能します。だから「白夜は明ける」といった表現は、天文学的には誤りでも、内面の情動や関係性を伝える装置としては有効なんだ。このとき重要なのは、命題としての真偽ではなく、「どのような意味を喚起するか」です。つまり詩の言語は、事実記述というよりも意味生成の媒体なのです。
詩はしばしば、論理では届かない領域を扱うことで、人間の複雑な経験を掬い上げます。
よって、私が作詞した「知床旅情」における意図的な「非科学性」は欠陥ではなく、むしろ表現上の戦略だったんだよ。知床半島で白夜が見られないことは、言われるまでもなく、私は十分に分かっているよ。』
(森繁の反駁というより、ボクの詭弁でした😅)
▼過去の「歌詞の瑕疵かしら」シリーズはこちらのリンクから
歌詞の瑕疵かしら😱 ▫️▫️▫️ 「シャボン玉」 - こに〜 の ざれごと
続・歌詞の瑕疵かしら😱 ▫️▫️ 「赤とんぼ」 - こに〜 の ざれごと