古池や 蛙飛びこむ 水の音
言わずと知れた松尾芭蕉の名句である。
もし、この句が葛飾区立赤土小学校3年生の山本功くん(仮名)の作品だったら、名句になりえただろうか?
おそらく凡作と評されるのではないだろうか。
否、評価する功くんの先生の感性に大きく依存するだろう。
この句を名句たらしめたのは芭蕉というブランドかもしれない。
すなわち、鑑賞者の芭蕉に対する忖度した解説が敷衍されることでこの句が名句として広く認知されたのではないだろうか。
然らば、世界一短い詩といわれる俳句は、その情報量の鮮少さが故に漠然性が大きくなり、秀作か駄作かの明確な客観的基準が存在しないのだろうか⁉︎
そこで、私が一句詠む。
そして、その句に対し、私みずからが、忖度した鑑賞文(解説)を付加することで、その句を名句に仕立てられるかどうかを検証してみたい。
【私の詠んだ句】
寒椿 厚き葉の端の 確かなり
【私の鑑賞文(忖度)】
静謐な空間と椿葉によって創られる鋭く明確な境界 、三味線のバチのように硬質な質感。
そこには実在を確たるものとして捉えた作者の決死の覚悟までもが宿っているようだ。
肉厚な椿の葉がもたらす赫奕たる実存を中七で葉の端(はのは)と軽妙に詠んだところに作者の非凡な才能と技巧が感じられる。
この句にある椿葉と空間との離散的な境界は、枕草子 の一節(※下記)にある山際と薄明とが創りだす淡い境界と対極にあるも、静と動、あるいは硬と軟 のように互いに補完的でもある。
詩歌に於ける境界の双璧とも称されよう。
( ※ 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる…)
濃密なリアリティを対象として鋭角に切り取り、対象が自己に与える感性をていねいに詠みとったところに作者の面目がある。
(鑑賞文 終わり)
もし、作者の属性を伏せて、上記の句とその鑑賞文を見せられたら…
この句はどう評価されるだろうか?
名句かどうかは、句そのものよりも、鑑賞文の忖度に依存するところが大きいのではないだろうか。
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古くなったエアコンから水が漏れている。でも今年は自粛の夏、新しいエアコンを買わずに我慢します